ダーク ピアニスト
前奏曲10 月とバイオリン



 月は静かに燃えていた。凍てついた炎と、それを映す漆黒の湖。高い塔の張り出した窓の淵に腰掛けて無常を奏でているものは、この地に住まう精霊なのかとルビーは思った。
 その塔は館からだいぶ離れていた。広い敷地を巡る散策路。その先には自然をそのまま生かした森や林があり、小川が流れていた。そして、その林の外側には周辺を見渡すことのできる高い塔があった。音色はその塔の上から聞こえた。ルビーは足音を忍ばせて近づいた。周囲に灯りはなかったが、夜目の効く彼にとっては星の明かりで十分だった。

 塔の螺旋階段を上って行くと、果たしてそこには彼がいた。長いブロンドの髪が夜風に揺れて、瞳を閉じた横顔に射した月光がその魂をより神秘的な存在へと導いていた。バイオリンを奏でているのはパトリック・シェルモだ。その透き通った音色に酔いしれて、そこに居合わせた夜と月と湖、そして今、ここに辿り着いたばかりのルビー・ラズレイン。そのメロディーを聞いた者は皆、それを奏でる者に永遠の恋をした。

「いつからそこにいたの?」
静かに楽器を下ろしたバイオリニストが訊いた。
「今だよ。君を驚かせちゃいけないと思ったから……」
「夜は足元が暗いのに……」
そう言って振り向いた彼は2本の指で波打つ髪をそっと肩の向こうに流した。
「平気だよ。僕、見えるもの」
塔に続く小道には、ほとんど街灯がなかった。
「それにね、僕、夜の散歩は好きだよ。眠れない時には、いつも月が慰めてくれるんだ」
ルビーは彼の隣に来て空を見上げた。

「僕もだよ。こんな夜には妖精が現れるんじゃないかと思ってここに来たんだ」
「妖精?」
ルビーが振り向く。パトリックはそんな彼に目を合わせて頷くと、楽器をケースにそっと戻して言った。
「ずっと探してたんだ。子どもの頃に出会ったあの妖精を……」
林の奥で木々の葉がサワサワと鳴った。

「それで、妖精は来た?」
ルビーの問いに、彼は首を横に振った。
「だけど、今日は君が来た」
「僕が来てはいけなかった?」
「いや、来てくれて嬉しいよ」
そう言うと彼はルビーの背中に腕を回し、身体を寄せた。それから、もう片方の手でその前髪を分け入り、額にそっと口づけをした。
「パット……」
ルビーは戸惑ったようにその顔を見つめた。

「僕が探していたものは君だったかもしれない……」
バイオリニストは真剣な表情で打ち明けた。
「初めて君のピアノを聞いた時から、僕の心はすっかり君の虜になってしまった。僕の中で魂が震えてる。君を求めて叫び続ける。妖精はこんなにも近くにいたんだ。しかも肉体を持って、僕に会いに来てくれた。僕は嬉しくて……。でも、直接触れてしまうのが恐ろしくて……。今も心の中でずっと葛藤を続けている」
「僕もだよ。もうずっと千年も二千年もここにいて、僕達は音楽を奏でて来た。そんな風に思うんだ」

黒い林のシルエットが月の中に浮かび、風が軌跡を詩う。
「ルビー……」
そう呼び掛けて、彼は頭を振った。
「いや、違う。そんな俗っぽい名前じゃない方がいい。僕達の間では……。ねえ、君は何て呼ばれたい?」
「ルイ」
彼が答える。
「いいよ。ルイ、君にとって、それが特別なものならば……」
「それじゃあ、君のことはパティーって呼んでもいい?」
「もちろんさ。僕は君が呼ぶ名で答えるよ。この月の下ではね」
そうして、二人は長い間そこに寄り添って、互いを見つめた。

「もう弾かないの?」
傾き掛けた月を見てルビーが訊いた。
「リクエストはある?」
「ユーモレスク」
「OK!」
彼は楽器を取ると吐息のようにやさしく、弦を鳴らした。


ユーモレスク
君の名を
弓で奏でる三日月を
夜明けの雲が覆ったよ

愛を知らない鼓動を抱いて
震える弦の指先が
空を想って泣いている

自由な空に
自由な心
はみ出してしまったメロディーは
枠組みを越え
空の彼方へ飛んで行く

赤い三日月に帆を張って
獅子の弓を翳し
僕は旅人
君という名の楽器を探す

ユーモレスク
君の名を
震える弦に耳を当て
左に三日月
右に弓
星の明日を奏でてた

ユーモレスク
無音の音符

ユーモレスク
君の名を
見つめる光が
吐息を漏らす

「夢のようだね」
ルビーが言った。流れる風は穏やかで虫達も今は彼の音に聞き入っている。
「ああ、そうだね。まるで夢の中にいるみたいだ。今なら本当に君と飛べるような気がする」
楽器を下ろして彼が言った。
「飛ぶ?」
ルビーに訊かれてバイオリニストは弓を撫でながら言った。
「おかしい? でも、子どもの頃には本当に飛べるって信じてたんだ」
遠い記憶をなぞるように彼は続けた。

「マルコの庭は本当にきれいだった。花畑が何処までも続いていて……。そこに建っていた大きなモニュメントに上って、僕は青い空を見ていた。すると、とても心地良い風が吹いて来て、それで、僕は本当に飛べると思ったんだ。遠くでマルコが何か叫んでいた。僕にもそれは見えていた。彼が何て叫んでいるのかもちゃんと聞こえた。あとで知ったのだけれど、そのモニュメントの高さは10メートルもあったらしい。僕は光の中に妖精が見えたような気がした。そして、僕を手招いてくれていると思った。それで、僕は飛んだんだ。そこから……」
風が止んで、彼の言葉もそこで途切れた。

「それで? 君は飛べたの?」
その問いにパトリックは自嘲の笑みを浮かべて言った。
「落ちた」
「……」
「それからしばらくの間、僕は意識を失っていたらしい。目覚めた時には4日過ぎてた。ベッドの脇にマルコがいて、僕の手をしっかり握って涙を流して言ったんだ」

――パット、人は鳥や天使にはなれないんだよ。その代わりに神様は人間に想像力という万能の翼を下さったんだ

「それを聞いて、僕はとても悲しくなった。それなら、もう永遠にヴィヴィと別れなければならなくなってしまったんだと思って……。ヴィヴィというのは、僕の小さなバイオリンに宿っていた妖精のことだよ。僕はその妖精からこの楽器の弾き方を習ったんだ」
「その妖精は今もいるの?」
ルビーは彼のバイオリンを見て訊いた。
「今は……もういない」
彼は寂しそうに言った。それから弓をケースにしまうと、探るような目でルビーをじっと見つめた。

「あの子はずっと女の子だと思ってたけど……。そもそも妖精に性があるかどうかもわからない。もしかしたら君がヴィヴィそのものなんじゃないかって思うんだ」
「残念だけど、僕は違うよ」
あっさり否定されて彼はほんの少し肩を落とした。が、やがて気を取り直して言った。
「そうか……。じゃあ、君はピアノの妖精かもしれないね」
「それも違うと思うけど……」
風が少し強くなった。遠くから梟の声が響いて来る。雲が動いて、月の下半分を覆った。

「僕のこと、変だと思ってる?」
不安そうな笑みを浮かべてパトリックが訊いた。
「何故?」
ガラスのない窓の淵に小さな蛾が止る。
「大人の僕がそんなこと言うなんてさ。大人になれば、もう誰も妖精の話なんかしない。僕はみんなから変わり者だって言われてるよ」
そこから飛び去って行く昆虫を見て言う。

「パティーはまだ信じてるの?」
「もちろんさ。もうとっくにその姿は見えなくなってしまったけれど、僕は今も信じてる、その存在を……。そして、できればもう一度会いたいと願ってるよ、本気でね」
言葉は自信に満ちていたが、青い瞳は悲しそうに瞬いた。
「パティー」
ルビーは背後からそっと彼の髪を撫でつけた。

「ねえ、パティー。今も空を飛びたいと思ってる?」
「それはね。でも、わかってるんだ。僕にはそんな力はないんだってこと……。だからヴィヴィにも会えなくなってしまったのだと……。悲しいね。人間って……。だから、人は音楽を作り、それを奏でようとするのかな?」
「そうかもしれないね」
ルビーが頷く。そしてまた、パトリックが何か言おうとした時、ルビーがそれを遮った。
「でもね、諦めることはないよ。だって、僕達はまだ飛べるんだもの」
「飛べるって……?」
怪訝そうなパトリックの手を掴んで彼は勢い良く引いた。

「飛ぶよ!」
「えっ?」
いきなり体がふわりと浮いて、窓枠を越えた。
「僕が君の翼になってあげる」
「ルイ……。これはいったい……!」
足はとっくに床を離れ、体が所在なげに揺れる。塔はどんどん小さくなって、地面から遠退いて行った。そうして、川も林も見渡せる高みまで来た時、ルビーは彼を抱えて風に乗った。

「なんて不思議なんだろう。体がやけに軽い。まるで魂が抜け出てしまったように……。ひょっとして僕達……。ねえルイ、体は何処にあるの?」
パトリックが訊いた。
「ここにあるじゃないか」
ルビーが答える。
「ここに……?」
彼はその顔をルビーの胸に押し付けて微笑した。
「あたたかい……」
それから、彼は顔を離して眼下を見た。握った手首に脈が触れ、頬に当たる風の冷たさを感じた。

「ああ、僕達、本当にまだ死んでいないんだね?」
「生きてるよ。君も僕も、ちゃんとこうして息をしてる」
「じゃあ、どうして僕達浮いているんだろう?」
「風に乗っているんだ。ねえ、どっちに行きたい?」
「湖」
「いいね。あそこに浮かんでいる白鳥のボートに乗ろう!」

二人を乗せたボートはゆっくりと湖の中央に滑り出した。
オールを持たなくても緩やかな流れに乗って南を目指す。

「ねえ、あの赤い星を取って、君の黒髪に飾りたい」
パトリックが空を仰いで言った。
「赤い星……?」
ルビーは彼が指差した空を見た。が、その星が何処にあるのか見つけられなかった。もしかしたら、人は皆、それぞれに違うものを見ているのかもしれないと彼は思った。
(それでもいいよ。僕はいつまでも君の傍にいたい……)

「君には白い羽の付いた帽子が似合いそう」
ルビーが言った。
「ああ。それなら一つ持っているよ。冬のステージで一度だけ被ったことがある」
「それはきっと素敵だね」
彼なら本物の天使になれるかもしれないとルビーは思った。

「ごめんね、パティー。バイオリンを塔の上に置いて来てしまって……」
ルビーがすまなそうに言った。
「大丈夫。きっと今頃は月がそれを奏でているさ」
雲が退いて、その輪郭を現した月は、前よりもずっと大きく見えた。
「ごらん、ルイ。水面に星が光ってきれいだよ」
そこには空が反射していた。
「本当だ。まるで空も地もみんな繋がっているみたい……」

そんな星々に見惚れていると、何処かから美しい音色が響いて来た。顔を上げると、舳先に座ったパトリックが優雅に弓を動かしている。
(あれ? いったい誰が持って来てくれたんだろう?)
淡い月の光に照らされて、バイオリンを弾く彼の肩に、小さな羽を持つ者がいるのを見て、ルビーはにこりと頷いた。